勉強を「罰」化するのは、簡単です。
「提出物忘れた?
じゃあ、罰として、今日の宿題は倍の量だからね」
だとか、
「点数届かなかった?
罰として、見直ししなさい」
だとか、
「漢字覚えてないの?
罰として、5回ずつ書いて」
だとか。
「罰として」
という言葉が、まくら言葉になかったとしても、
それは明らかに「罰」となっている。
なぜなら、勉強する側に、苦痛が生じているから。
点数が及ばなかったり、
出来が悪かったり、
宿題をこなせなかったり、
その時点で、子供の心には、罰が与えられている。
「しまった」
「やってしまった」
「悪いことをしちゃった」
などと反省して。
顔には出さなくても、
すでに苦痛はある。
そこへきて、
さらに大人が、罰を与える、ということは、往々にして起こりうる。
傷口に塩。
「罰として、グラウンド3周、腕立て100ね」
という体育会系の、苦笑いの伴う、アレです。
こんなことをしていたら、
勉強嫌いになっちゃうのではないか。
勉強が苦痛になってしまう。
勉強すること自体が、罰になってしまう。
そう思います。
当塾の新中1をご覧いただきたい!
なお、当塾は、宿題は出しません。
(宿題やって頭良くなると思っていないので)
その代わり、
ほぼ毎週、授業内容に応じてテストがあります。
決して難しいテストではなく、基本中の基本を問います。
テスト範囲は前週に告知します。
このテストに合格しないと、
翌週の授業までに、他の日に来てもらい、1時間半の補習となります。
この補習も、罰という見方をできてしまうのかもしれないですね・・・
けど、
補習の内容は、
同程度のテストをもう一度受けたら必ず受かるよう、
つまり合格レベルに追いつけるよう、
たくさん勉強して、強くなる、
という内容で、
たぶん、補習を受けている生徒は、
「標準レベルより遅れをとってしまった」
と思っているはずなので、
どうにかクラスの標準レベルに到達したい、という願望がある、はず。(きっと!)
私、そのように仕向けてはおります。
さて、新中1の話です。
今日、この後、数学のテストです。
入塾以来初めてのテスト。
先週告知して以来、
入れ替わり立ち代わり、勉強しに来ています。
「勉強しに来ました」
そう言って、
テストに合格するように、
自主的に勉強しに来ているのです。
「この範囲から出すよ」
と渡したプリントの束を持って。
いいんです。勉強しなくても。
テストに不合格になり、
補習になって、
あとでそのぶん、勉強することになる。
それでも別にいいんです。
しかし、
彼らは、それは選ばない。
合格を勝ち取るために、
勉強しに来た。
「教材がなくなりました。もっとください」
という声も聞こえました。
この勉強は、「罰」といえるでしょうか。
少なくとも彼らにとっては、そうではないでしょう。
新中2も、新中3も、
るんるん勉強している♪
そんな姿を見ています。
Comentarios