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  • 執筆者の写真加藤亮太

勉強の「罰」化

更新日:2022年3月18日

勉強を「罰」化するのは、簡単です。



「提出物忘れた?


じゃあ、罰として、今日の宿題は倍の量だからね」




だとか、



「点数届かなかった?


罰として、見直ししなさい」



だとか、



「漢字覚えてないの?


罰として、5回ずつ書いて」



だとか。







「罰として」


という言葉が、まくら言葉になかったとしても、



それは明らかに「罰」となっている。



なぜなら、勉強する側に、苦痛が生じているから。






点数が及ばなかったり、


出来が悪かったり、


宿題をこなせなかったり、




その時点で、子供の心には、罰が与えられている。




「しまった」

「やってしまった」

「悪いことをしちゃった」



などと反省して。



顔には出さなくても、


すでに苦痛はある。




そこへきて、


さらに大人が、罰を与える、ということは、往々にして起こりうる。



傷口に塩。





「罰として、グラウンド3周、腕立て100ね」


という体育会系の、苦笑いの伴う、アレです。





こんなことをしていたら、


勉強嫌いになっちゃうのではないか。



勉強が苦痛になってしまう。


勉強すること自体が、罰になってしまう。




そう思います。







当塾の新中1をご覧いただきたい!




なお、当塾は、宿題は出しません。


(宿題やって頭良くなると思っていないので)




その代わり、


ほぼ毎週、授業内容に応じてテストがあります。


決して難しいテストではなく、基本中の基本を問います。


テスト範囲は前週に告知します。




このテストに合格しないと、


翌週の授業までに、他の日に来てもらい、1時間半の補習となります。





この補習も、罰という見方をできてしまうのかもしれないですね・・・


けど、


補習の内容は、


同程度のテストをもう一度受けたら必ず受かるよう、


つまり合格レベルに追いつけるよう、


たくさん勉強して、強くなる、


という内容で、


たぶん、補習を受けている生徒は、


「標準レベルより遅れをとってしまった」


と思っているはずなので、


どうにかクラスの標準レベルに到達したい、という願望がある、はず。(きっと!)



私、そのように仕向けてはおります。







さて、新中1の話です。




今日、この後、数学のテストです。


入塾以来初めてのテスト。





先週告知して以来、


入れ替わり立ち代わり、勉強しに来ています。




「勉強しに来ました」


そう言って、


テストに合格するように、


自主的に勉強しに来ているのです。




「この範囲から出すよ」


と渡したプリントの束を持って。




いいんです。勉強しなくても。


テストに不合格になり、

補習になって、


あとでそのぶん、勉強することになる。


それでも別にいいんです。




しかし、


彼らは、それは選ばない。


合格を勝ち取るために、


勉強しに来た。



「教材がなくなりました。もっとください」


という声も聞こえました。




この勉強は、「罰」といえるでしょうか。


少なくとも彼らにとっては、そうではないでしょう。





新中2も、新中3も、


るんるん勉強している♪


そんな姿を見ています。



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