• 加藤亮太

観劇 地点「グッド・バイ」

最終更新: 2019年1月14日

 演劇好きのかみさんに、連れられて、劇団 地点の「グッド・バイ」を観てきました。

 原作は太宰治の同名の絶筆。

 吉祥寺シアターにて。

 日頃から、観劇は、専門のかみさんにそのセレクトを任せて、ちょいちょい観てきました。そんなふうでも、まあつまみ食い式に観てきて、かれこれ三年、自然と、現代演劇とはなんぞや、演じるとは何ぞ、表現とは? みたいな頭ができあがってきたようで、素人なりにもひとつ価値基準ができてくるもののようです。

かみさんに連れられ道中、地点、というどうも片割れ探すよう、虚しげな、でも、踏ん張りきいて、力強くもあるような、そんな不思議な名前の団体のことを、ウィキで調べたり、ステージナタリーで調べたり。すると、京都が本拠地らしい。最新鋭の劇団らしい。

私、加藤、無類の京都好き、そして新し物好きゆえ、地点、果たしてどんなか、バーを模したステージをまっすぐ見据えられる前の方の席に着いたものです。


 芝居は、こんなものでした。

自己存在否定的演出による反復解体、解体されて演劇の、それ自体の無意味化への飛翔、いわば演劇自身の自殺が、生演奏バンド音楽のうねうねビートとともに、ジャジーに炸裂して、特にセリフの自滅、その乱発、花火の如く炸裂、それが延々続けられ、太宰治とともに自己否定の生を突進、皆さんさようなら、といったものでした。

 よくわらからない説明ですが、本当にこうなのでした。


 フランスの映画監督ゴダールは、「時間の闇の中で」(「10ミニッツオールダー」というオムニバス企画に参加するかたちで製作)のなか、「映画の最後」という章にて、たしか1分も満たない時間だか、映画のスクリーンとおぼしき布にがんがん風を当てて吹っ飛ばそうとする装置の様子を、ただただ、撮影・放映した。

 映画というのは、本来スクリーンで観られることを前提に作られているので、我々はスクリーンで観なければ、その映画を観た、とは言えないのだ、映画館へ行くべきだ、

 まあそれはさておき、その映画スクリーンがぐちゃぐちゃに吹っ飛ばされそうになっている映像を、投射しているスクリーン自体を、我ら観客は、じっさい、観ることになるのだが、

 これはつまり、「映画の最後」と銘打って、その章題の意味をなすため、物理的に、あまりにも物理的に、映画を殺そう、とたくらむ映画があっても、それをじっさいに観ている我々は、映写されている事柄など関係せず厳然たる存在=スクリーン、を眺めている、だから、この行為は、映画を終わらす意志を示すには有効かもしれないが、その意志は決してかなわないのは明白なのである。(じっさい、この映画は、この後も続く。)ゴダール本人が、我々がいる映画館にじかに現れてじかにスクリーンを破く、映写機を壊す、などしなければ、この意志を完遂することはできないし、だいいち、「最後」と言う、その意志は本当に映画を終わらせようとしているのかすら、あやしいものである。このあやしさは、観客への知的挑発なのか? それとも、ただの思わせぶり? へそ曲がりのゴダールのやりそうな事だ。そう観客は猜疑する。

 同じようなことは、例えば、両手でリンゴを掲げた大人の男が、「これは、リンゴです」と、目の前に突き出されたら、「ばかにしないでください、見ればわかるわよ」という頷きと、「見ればわかるのに、わざわざ説明するっていうことは、これって本当はリンゴではないの? 本当は何?」というへそ曲がり的疑ぐり、この両者がいりまじって、「あら」などと言いながらちらちら怪しい相手の目を覗く、ということになろうと思う。もしかしたらリンゴ型の爆弾かもしれないじゃないの。

 そういう猜疑心と似ているようだ。

 こういうことは、小説でよく見られる。

 物語の否定。物語だというのに、なんと物語っぽさを否定して、物語よりも、どう書いたか、に重点を置いている。物語の面白さで読者を惹きつけることよりも、文章をどう連ねるのか、その手法自体に寄りかかって、劇中劇=メタ構造など構造の操作も使って、小説内の世界では世間一般的ルールはすべて作者の操作の下、宙ぶらりんになり、そのぶん、作者自体が存在感を増し、読者に生々しく声を伝えてくるような、やり口。

 これは、海外でも、大昔からあるらしい。

 が、なかなかうまくいかない。いち読者の私は、こういう作品に傑作は少ないと思っている。とはいえ、私小説はこの分野なのだろう、とも思える。わが国の私小説はすごい。

 さて、そんなことをされると、読み進めれば進めるほど、先ほどのリンゴ状態、作家の手先にばかり気がとらわれて、仮に展開される物語があっても、それはどうせ片手間なので、なかなか頭に入ってこない。作者による巻き戻しと早送りができる、という非現実的ルール下の物語のなか、登場人物たち、A子とB男の恋愛が成就しそうなシーンにあっても、「でも、この話って、どうせ作者の理論の発表でした、じっさいはA子とB男はそもそも存在していない、作者の両面性を具現化した人形で、人形は作者の亡母の遺品の糸で出来ている、とか、一見思わせぶりで、結局意味を否定する、みたいな展開になるんでしょ? あ、あるいは、いきなり『さてここまで書いたけれど、この話にはもう一パターンあって』みたいに、作家の創作メモがぬけぬけと登場するんじゃないの? 結局なんでもありだな」みたいな、疑ぐり深い頭ができあがって、しまう。しまいかねない。作者はバランス感覚が肝要なようだ。

 で、じっさい、そういう作品を書く人として、私加藤は、まさしく太宰治のことを思い出した。

「道化の華」という、太宰の初期の作品だが、これは、もう文中、四六時中、作者がぬけぬけと登場して、いちいち弁解がうるさいつくりになっている。主人公の名前を紹介するところなんか、もうつっかえて、ねえねえ読者よ、こんな名前でいいかな? いいよね? いやだと言っても、作者は押し通すよ、みたいなことを、読者に語りかけつつ、物語が、こうなったらまあわざとらしく、作られていく、その様子が実況中継される、・・・ように読める。その作者風情の声の主が、太宰治本人であるかのように、読者に生々しく迫る。だから、この作品を読んで、あたかも太宰治その人自体を読んだような気分になる。これが太宰のうまい仕掛けで、自己演出なのだろう。そして、自己演出した時点で、その人本人の、仕掛けを読んでいるにしても、やっぱり、その作家のある一面を私たちは読んでいる。あたかも読んだ気になれるのと同時に、読んだのも事実だ。隠れ蓑を被った人を見て、何も情報がないわけではない。その人の形状はわかる。猜疑しつつも。

 で、それが果たして面白いかどうかは、こちらが前提として太宰を好きだったら面白い。好きじゃなかったら、ずっとうざったい。そんな感じの作品で、私には、うざったかった。

 こうまで作者風の声が出てきちゃうと、小説の中の世界が、「なんでもあり」の状態になる、この猜疑心継続の状態に、とても耐えられない。ずっと疑ってかかってしまう。何が本当か、気になる、というより、気にすることが面倒になる。読む気が失せる。読まれないうちの文章は、果たして存在する、と言えるのか?

 また、「なんでもあり」の状態は、作家にとってじつに簡単な見解だと、私は思う。想像したらすべてが思い通りの世界、それは子供騙しの絵空事だ。製作精神が懶惰だ、と。


 地点「グッド・バイ」。

 七名の役者はみな観客に向かって、発言し、せせら笑い、かと思えば、慟哭し、役者どうしは全く会話しない。どうやら、まったく物語化する気配はない。役者は、いちおう、太宰治の要素を分化させたフェアリーテイル状態。

 役者が演じること、これは仕事だが、その仕事を全排除するように、生演奏の音楽が流れ、流され、けっこう音量も上がって、すると、何を言うにも叫ばねばならないので、すべて棒読みと同等になり、それを何度も反復するので、芝居がうまいとか下手とか以前の丸裸にされた言葉が、まあ、分解され、ただの音となって、役者の口からこぼれて落ちるだけとなる。

 また、落ちる発言の内容も、よく聞くと脈絡のない、太宰の発言や文章や太宰の作品名など、太宰を構成するキャッチコピーの散り散りコピペコピペで、こちらはもう聞く耳もなくなる。聞かれないかもしれないのに、まだ役者たちは叫んでいる。

 これは役者が自らその存在意義を、あえて否定している。役者の存在を否定するだけでなく、人間としての自然な行動すら否定され、予期せぬ声をあげる、乳児程度のような状態にまで、機能を奪われている。せっかく俳優をやっているのに。残酷なことだ。

 そして、延々と流れる音楽。

 音楽は、そもそも、事象を押し流す効用があろう。音楽を聴きながら歩いていると、自分の通って見た風景の記憶が薄くなる。あるいは、面倒な作業もはかどり、効率がアップすることもある。またあるいは、嫌なことがあったら、音楽を爆音で流して、頭を空にするような気持ちで、騒げば、何もしないよりも早く時間が経つ気がする。

 これもまた、残酷に、役者の役者たる要素を否定する。役者の役者たる存在意義を、舞台の概念の外へ押し流そうとする。音楽のノリが役者の呼吸のビートを飲み、消す。

 いよいよ役者は、形式の骨組み、スタイリッシュの権化となり、舞台上、頭脳・神経を放棄し屹立した、骨と筋肉と関節と贅肉、という分解寸前の無機集合体へと形骸化してゆく。操り人形のよう。あるいは、死にゆく太宰治か。


 物事の崩壊というのは、沼田真佑の小説「影裏」で、脳内に轟音とともに生まれる感慨で、あれは感動した。読み手や受け手に、とある感動を喚起し得る。それは、崩壊の前提として、積み上げの過程が描かれていなければ、崩壊のしがいがないというものだ。

 が、地点の演劇には、それすらない。

 はなから崩壊している。最初から最後まで、自殺したい太宰治の言葉を、皆が自殺しながら叫んでいる。演劇の断末魔。これはなんなんだ。ほぼ全否定か。虚無か。


 いや、それとも、太宰のことは皆知っている。太宰はポップスターだ。だから、その前提を、いわば借景する庭のように、各々の太宰治像は構築済みとして、観客席についたときには出来上がっているとしている、だから、崩し壊しても良いのかもしれん。


 皆が知っているポップスターは、そりゃあドラえもんだ。

 地点「グッド・バイ」が、ドラえもんだとしたら、

 ドラえもんがどら焼きを常にかじりながら、のび太の上空にずっと追尾して、視聴者に向かって「ぼくどうせ猫型だから」こう、しつっこくぼやきつつ、のび太が危機に遭いそうな予感には、即、便利グッズを提供するので、のび太に不遇の時は決して訪れず、友人たちは皆、しょんぼり、帰っていく。各人、虚無僧になってそのまま放浪の旅に出る。ドラえもんはこちらに背を向けて、虚無僧のドキュメンタリー番組が流れるテレビを見ながら筋トレしている。



 地点、

 残酷だなあ、と、ショックを受けたには受けたが、もっとショックを受けたかった。

 あるいは、新しい、またあるいは、懐かしいショックを受けたかった。

 受けるには、他にどうしたらよかったのか、あるいは、逆にどうしなければよかったのか、それを考えています。

 観客がいて初めて舞台が生まれるのだとしたら、観客をいれない舞台をやってこそ全否定できる、手っ取り早い。それをなぜしないのか。それはやはり、舞台を全否定できないからだろう。

まあ、サヨナラダケガ人生ダ。




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